◀前のお話  目次

堀木清次郎のあゆみ


明治40年 三重県四日市市北納屋町で生まれる
(1907年)
大正11年 東京商業学校(夜間部)に入学(14才)

大正12年 関東大震災にて学校等焼失 四日市にもどる
     (16才) 学校再開なるも上京せずに中退
大正13年 家出をして再び東京へ(17才)

大正15年 四日市にもどる(18才)野崎自転車店に勤務
     (見習い)
昭和2年  「アダマンチノーム」という病気にかかり
     下あご骨を切除(19才)
昭和3年  自動車運転免許合格 野崎タクシーの運転手
     となる(20才)
昭和7年  ホリキ洋品店を開業(四日市市中川原町)(24才)

昭和9年  角見テルと結婚(27才)

昭和13年 紳士堂(男子専科の洋品店)を開業
     (四日市市中町)(30才)
昭和18年 紳士堂を廃業 四日市市新浜町に転居(35才)
     知人の紹介により義信(2才)を養子とする
昭和20年 四日市空襲 家屋焼失し妻の実家へ
     (四日市市富田一色)(37才)
昭和23年 四日市市吉田町(現在の川原町の一部)
     に転居(40才)
昭和25年 養鶏業を始める(42才)

昭和34年 四日市市室山町字五反田(現在の笹川団地の
     一部)に転居し養鶏業を拡大(51才)
昭和41年 養鶏業を廃業(58才)協和通商(株)に勤務
     養鰻飼料の販売に従事
昭和53年 協和通商(株)を退職(70才)

昭和54年 「思い出の記」を書き始める(71才)

昭和56年 笹川老人クラブ会長となる(73才)

昭和63年 肺ガンにより死亡(80才)
(1988年)


編者あとがき

 父は明治40年三重県四日市に生まれ、昭和63年満80才でこの世を去りました。最後の10年間、と言いますと71才から80才までの間ですが、父は日記帳にその日のできごとや昔の思い出を気のむくままに書きとめていました。日記帳の表紙にはどれも「想い出の記」と書いてありました。つづいて表紙の見返しには次のような言葉が書かれていました。

 人生とは、様々な喜び、悲しみ、驚き、感激、困難、怒りなどを繰り返しながらひたすら人生航路の終局点を目指して、休むことなく航海を続けつつあるのだ。終局点へ行き着くまでの色々な出来事を、この日記を借りて書き残しておくことは無駄ではないと思う。折にふれ、時にふれ、頭に浮かんだ過去のこと、現在のことを断片的に筆の向くまま書いておくことにした。
 後日誰かがこれを読んで、私の人となり、人間性を知る糧になれば辛甚だと思う。
   堀木清次郎


 この本は10年間にわたる「想い出の記」から抜粋・編集したものです。
 私は、父の死後「想い出の記」を読んではじめて父の人生の全貌を知るのですが、全体を通じる底流として、生かされていることの喜びとともに、老いてゆくさびしさ、いつの日かこの世から去らねばならないやるせなさが色濃くにじみ出ていました。父は最後の数年間、人生最後の生きがいとなった老人会会長の仕事に全身全霊を打ち込みますが、その姿はあたかも、自分の意思に反して確実に進行していく老化、近づきつつある死の予感から来るさびしさ、切なさを被い隠そうと必死にもがいていた姿のようにも思えてなりません。
 父に人生最後の生きがいを与えて下さった笹川老人クラブの皆様に深く感謝いたします。そのほか、父に生きる喜びを与えて下さったたくさんの方々にも御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
 なお、カバーとさし絵は、父の親友であり、父が大変お世話になった「野崎タクシー」の御曹子である野崎茂生様(大阪在住)に、当時の様子を思い浮かべながら、描いていただきました。

平成元年(1989年)5月  堀木義信


◀前のお話  目次