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兄・姉・母・父
兄につれられて軽便鉄道に乗る
大正元年、三重県の四日市・八王子間に軽便鉄道が開通した。そして、鉄道会社が八王子にしょうぶ園や人工の滝を作って、乗客の誘致を計っていた。
夏だった。私は清吉兄に連れられて八王子へ遊びに行った。初めて乗る軽便鉄道が珍しく、見るもの、さわるものが驚きだった。心を踊らせながら、兄の腰に巻き付くようにしてついて行った。私が5才の時だった。
曲がりくねった足場板を渡って、しょうぶを見て回った。それから、山道を登って滝へ出た。よしず張りの茶店が1軒ポツンと建っていた。兄と私はその茶店へ着物を預け裸になって、滝ツボヘ足を入れた。ひやりと冷たかった。落下する水の中へ恐る恐るはいった。

滝からあがって、茶店で着物を着た。兄は女中さんにサイダーを注文した。やがて女中さんがガラスのコップにサイダーを注いでくれた。私は生まれて初めてサイダーを飲んだ。口中を刺すような刺激があって、甘いような、苦いような、不思議な味だった。「こんな飲み物があるのを、兄さんは知っていたのかな――、兄さんは偉いな――」と感心した。
軽便鉄道に乗ったこと、滝にうたれたこと、茶店で飲んだサイダーの味のこと、今でもはっきりと当時の情景がまぶたに焼きついたように残っている。
小さい頃は兄に随分苦労をかけたし、また、わが子のようにかわいがってもらった。妹と私は年子だったので、母親は妹に手がかかる関係から、私の守りはもっぱら兄にかかってきたのだろう。兄は学校から帰ると私の守りが仕事だったということだ。そんなことで、兄にしてみれば、面倒をみたり骨を折った私に、自然と情が移ったのだろうと思う。自分の子のように方々へ連れて行ってくれた。
兄は今だに口癖のように「お前の小さい時分は、おれが育てたようなものだ」と言う。その兄も84才になり、まるで子供のようになってしまった。
姉のただ一つの思い出
私には「まさ」という姉があった。私より5才年上だった。大正14年に名古屋の厚生病院にてチフスにより死亡した。
姉に関しては、あまり記憶に残るほどの思い出が多くない。でもやさしくしてもらったことを、ばく然とではあるが覚えている。
ただ一つ、いまだにはっきりと眼に焼付いていることがある。それは姉が小学校を終えて、東洋紡績四日市工場の工場長の社宅へ女中奉公に出た数日後のことだった。寒い夜だった。姉は、父に激しくののしられて、2つ3つ殴られていた。母は、姉をかばうようにして何か懸命に言い聞かせていた。姉は声を上げて泣きじゃくっていた。そんな光景を忘れずに時々思い出している。
事の起こりはこうでした。奉公先の社宅は午起(うまおこし)地内に、たった1軒ポツンと建っていた。当時の午起は、海岸堤防の松並木が見える以外は田んぼばかりで、町並からずっと離れた淋しい所だった。
姉は、夜になると、家から歩外へ出れば物音一つしない真暗闇で、聞こえるものは海岸へ打ちよせる波の音と松風、それに近くを走る鉄道の気笛がたまに聞こえるといった淋しさに耐えかねて逃げ帰って来たらしい。小学校を出たばかりの年端もいかぬ姉には無理だったに違いない。両親にしかられ、なだめられ、泣きながら母に連れられてもどって行く姉がかわいそうでたまらなかった。私も泣いた。
その後主人が名古屋へ転勤することになり、姉はお嬢さんが慕って離れないので、やむなくいっしょに名古屋へ行くことになった。そこで不幸にも病魔に見舞われ死亡したのだった。
あの寒い夜に父にひどくしかられて主家へもどったきり、再び実家へ帰ることなく――。
偉大なる母の愛
大正5年、私が9才の時だったと思う。四日市にペストが発生して、市民を恐怖の渦に巻き込んだ大事件が起きた。
発生源は東洋紡績が輸入しているインド綿だということだった。ペストと判明と同時に、紡績の工場内に居た者はそのまま缶詰めになり、出入りを遮断された。また、紡績へ最近出入りした者の家庭は、衣類や身に付けていた物を蒸気で蒸して殺菌する車が町で盛んに活動していた。
巡査が絶えず各家庭を見回って、病人を発見すると有無を言わさず、隔離病院へ連れて行かれた。「隔離病院へ入れられると、皆殺されてしまう」、そんな流言飛語がひそかに流布されていた。
そんな最中に、私は事もあろうに高熱が出て寝込んでしまった。母の驚きは想像にあまりある。「かわいそうに病院へ連れて行かれて、殺されるのではなかろうか」、そんな不安で気も狂いそうだった。
「これが最後になるやも知れぬ、せめてこの世の別れに」と、高熱の私をしっかり抱きしめて、一晩添い寝をしてくれた。
もしもペストだったら母も感染して、命を落さねばならぬのに。幸い一晩で熱も下り、事なきを得たが、母の無知を笑う前に母性愛の偉大さに頭が下る思いだ。自分の命を張って、今生の別れに添い寝をしてくれた母の愛情は忘れることができない。
その母に対して、孝行らしいことを何一つせずに過ごして来たことが今さら悔いられる。
「孝行をしたい時に親はなし」、全くそのとおりだ。今頃になって後悔しても何のたしにもならぬのに。ばかなおれだ。
村で一番早くチョンマゲを切った父
父は文久2年生れの戌(いぬ)年だった。身長もあって、堂々とした体格の大男だった。
頑強な体から見て、さぞ長寿だろうと期待したが、思ったほどでなく、70才で他界した。
父には名前が2つあった。子供心になぜ名前が2つもあるのか不思議だった。表札には堀木清四郎と書いて、その横に亀吉と書いてあった。他人は清四郎と呼んでいたが、亀吉と書いた書類もあった。
なぜ名前が2つもあるのか母に尋ねたことがあった。亀吉は子供時代の呼び名で、元服してからの名前が清四郎だと教えてくれたが、どうも釈然としなかった。
父の自慢話としてよく聞かされた話があった。それは16才(数え年)で元服した時のことだ。当時は斬髪がボツボツ流行し初めた頃だったので、思い切って髪を切り落として斬切り頭になったそうだ。人並以上に黒々とした毛を切り落とした時はさすがに心残りがしたと、いかにも惜しかったという顔つきで話してくれた。
でも、村で一番早く斬切り頭になって、時代の先端を行く若衆という誇りもあったようだ。
わが子の貯金を博打に使った父
父は6人の子供があるのに、私だけを猫かわいがりにかわいがってくれた。私は父の愛をひとり占めにして、うらやむ弟や妹に対して、勝ちほこったような優越感を持っていたようだった。そして父に甘えて父の愛をしっかりつかんでいた。
それが小学校へ入学して4年たち、5年たった頃になると、父の行為の善悪が次第にわかりかける年令になって来た。それにつれて父を見る目も変って来た。ある時には父の行いに腹立たしく感じたり、憎らしく思うようになってきた。家庭の幸福を思うと父が居ない方がよいとさえ思う時があった。
父は若い頃から道楽者だったらしい。その上、博打(ばくち)が三度の飯より好きだった。俗にいう打つ、買う、飲むのうち飲む方だけはだめだったが、打つ方は桁はずれだった。この博打好きがどれほど家族を不幸にし、悲しませ、はずかしい思いをさせたことか、これも桁はずれに大きかった。
私が父の行いに腹を立てたり、憎いと思ったのは、みな博打を打つ時の父に怒りを覚えたのであって、博打さえやらねばよい父だった。博打をやめてくれと泣いて懇願する母を、腕力を振るわんばかりの剣幕で怒鳴る父の顔を見ていると無性に父が憎らしく思えた。
母は父の博打好きには随分泣かされた。思いあまってか、一人で泣いている母を時々見かけた。
その当時、清吉兄は石垣鉄工所で年期奉公をしていた。おとなしい兄は、月々貰うわずかなこずかいを使わずに母に渡して郵便貯金にしていた。その血と汗の貯金を父が全部引き出して博打の資本に使ってしまったことがあった。その時の母の悲嘆にくれた姿は、今まで見たこともないほどの激しい嘆きようだった。
「清吉が使いたいのをしんぼうしてためたものを、全部引き出して博打に使ってしまうとは、子供がかわいそうだと思わぬか、それでも子の親か、親のする行為か」涙にふるえながら父にせまっていた。さすがに父は母の顔がまともに見られなかったのか、横を向いたままジッとあらぬ方を眺めていた。
母や兄がかわいそうに思えて、私はとめどなく涙がこぼれた。何というばかな父だろう。こんな父は早く死んだ方が家族のためによいとさえ思った。
でも晩年はあれほど好きだった博打もぷっつりと縁を切り、まるで人が変ったようにやさしい好々爺になり、少しまがった腰を、つえをたよりに毎日寺参りを仕事のようにしていた。あれほど家族を困らせたことをすっかり忘れてしまったかのように。
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