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四日市港・四日市まつり


四日市市民の宝・港
 四日市の宝物は四日市港であり、四日市は港と共に栄えてきた町だ。港は四日市の心臓であり命であった。四日市っ子にとって港は自慢の種であり、誇りにもなっていた。
 今の市民には、港に対して私ら四日市っ子ほどは切実な思いは無いかも知れないが、我々年代の四日市っ子には、港はかけがえのない大切な宝物だった。
 当時は、ライバル視していた名古屋港と何かにつけて比較しては一喜一憂していたものだった。とは言いながら、名古屋港に対して絶対的な優越感を抱いていた。その優越感というのは、四日市港は水深が深く、大型船が楽々と入港できる自然の良港であるのに対し、名古屋港は水深が浅く、大型船の入港が困難であること。たとえ浚渫(しゅんせつ)しても、木曽、長良、揖斐の三大河川から流入する土砂がたえず港の入口をふさぐので、大型船を受け入れるには地理的に不向きとされていた。

 四日市港は、アメリカ、欧州、豪州航路が次々に寄港するようになり、華々しい繁栄を誇っていた。
 ところが、四日市っ子が抱きつづけてきた優越感の鼻っ柱をペシャンコにヘシ折られる時が来た。それは大正10年のできごとだった。名古屋港の貿易額が、四日市港の貿易額を追い越したというニュースを耳にした時だった。このニュースほど四日市っ子に悲しいショックを与えたことはなかった。名古屋港は自然の悪条件を人力によって克服して、天然の良港を負かしたのだった。そして、現在は横浜、神戸に次ぐ大貿易港にのし上ってしまった。天然の良港が武器だった四日市港は、人力によって完全に敗北を喫してしまったのだった。
 四日市が港を中心にして栄えたことを証明するのによい例がある。それはこうだ。四日市の町を二分するように国鉄が南北に走っていて、昔は西を「高」、東を「浜」と土地の者は呼んでいた。「浜」とはもちろん港に近い所である。
 当時、四日市には銀行が5行あった。その5行が全部「浜」に集中していたことから見ても、四日市の中心が港であったことが容易にうなずけるだろう。銀行ばかりでなく、郵便局の本局も「浜」にあった。その他、肥料問屋、料亭、大商店が軒を並べていた。遊廓まであった。
 それが、名古屋に敗北を喫し、四日市港にかげりが見え始めると「浜」の繁栄もストップし、やがて中心が「高」に移り始めた。現在では完全に中心地が「高」に移り、「浜」は置き去りにされたような淋しい町に転落してしまった。
 時世の流れが町の形相を一変させてしまったのだ。

  

ご参考:
ホームページ「歴史ある四日市港」(四日市市発行「四日市市のあらまし」より)で、幕末から明治にかけて基礎が築かれ発展した四日市港が紹介されています。













四日市市民の夢・四日市まつり
 四日市っ子にとって自慢の種だった四日市港が、さまざまな要因が重なって、ライバルの名古屋港に完全に敗北を喫してしまい、自慢の種を失ってしまった。しかし、自慢の種は港のほかにまだ一つあった。
 それは「四日市まつり」だ。戦前の四日市まつりは東海の三大まつりの随一と言われ、けんらん豪華な30連の練り物が町を練りまわるという、まさに祭礼絵巻の圧巻だった。この四日市まつりは諏訪(すわ)神社の祭礼の余興として明治以前から行なわれていたと言われている。
  
 大名行列、くじら船、大入道とか、司馬温公のかめ割り、浦島太郎、弁慶と牛若丸、官公、紅葉狩といった操り人形など、各町がそれぞれ趣向をこらした練り物を出して、祭りの楽しさを盛り上げていた。
 30連の練り物が諏訪神社の神頭で演技を奉納して、各自の町へ帰るのは夜遅くなった。そして、帰りは「帰り山車」といって、練り物がユーモアたっぷりに変装して帰るので、それがまた人気があって、それを見ようとする人々で夜おそくまでにぎわった。近郷近在から見物人が押し寄せ、祭礼の3日間は町中がごったがえす人のうずだった。
 また、祭礼の3日間は戸毎に竹のすだれを家の表向きに垂らし、献燈を掲げ、商店や大家は表を開放して赤い毛せんを敷きつめて造り物や生花を飾り、自慢の金屏風を巡らして酒食を振舞うなど祭礼気分に酔った。
      
 一般庶民は、この派手な四日市まつりのために、1年間を汗水垂らしてせっせと働いているようにさえ見えた。というのは、町の祭礼費の負担金が戸毎にかかり、その分担金が庶民にとっては大きな額だった。それに、祭礼に着る衣装費(四日市っ子は、正月の晴着よりも祭礼に着る晴着に意を注いだ)、親類、縁者を招待してごちそうしてもてなす費用などがかさみ、1年間あくせく働いた金を3日間の祭礼に使い果すケースも多かった。
 正直に言えば、四日市まつりは1年中の労苦を吹っ飛ばして楽しむ行事でもあったが、その反面貧乏人にとっては出費のかさむ気苦労の多い行事でもあった。特に主婦にとってはその感が強いようだった。
 ところが、昭和20年6月18日に受けた四日市空襲によって、あのけんらん豪華を誇った山車もほとんど焼失してしまい、わずかに大入道とくじら船の一隻が疎開してあったので難を逃れたにすぎず、壊滅してしまった。今では、往時のけんらん豪華な祭礼絵巻はまぼろしの催しになってしまった。

 以上のような始末で、残された自慢の種も戦争のために奪われてしまい、四日市っ子の誇りだった港も祭も、今は夢物語りとなってしまった。

ご参考:
四日市観光協会のホームページに現在の「大四日市まつり」が紹介されています。









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