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昔のお話いろいろ
活動写真
昨日、福祉演芸大会と銘打って、毎年1回巡業してくる桂須摩子一座のショーを見物に行った。会場は市の文化会館で行われた。この会館は、2、3年前に完成した新しい建物だけに、近代的で立派なものだ。
私は、はなやかな舞台を眺めながら、心は子供の頃に初めて姉に連れられて見に行った活動写真(映画)のことを思い浮べていた。それは、私が小学校の3年か4年の頃だったろうか、はっきりしないが、活動写真を見るのは生れて初めてだった。たしか、「カチューシャ」というタイトルだった。電燈が消えて、スクリーンに写しだされる画面を、不思議さと珍しさに、かたずをのんで見入っていた。
今になってはどんなストーリーだったのか全然記憶していないが、ただ不思議と一つの場面だけが、今も目の前に写し出されているように鮮明に浮んでくる。それは、見渡すかぎりの広々とした雪の荒野を、布で頭や顔を包んだカチューシャが、厚い外とうを着て鉄砲を担いだ1人の兵士に連れられて、洋服の裾を風にひらめかせながら、静かに歩いて行く後姿のシーンだけだ。よほどこの場面が私の心を打ったのに違いない。このひとこまだけが、なぜかまぶたに焼き付いて消えない。
当時の映画館の模様を書きとめておくことにしよう。
当時はイス席でなく、どこの小屋(劇場)でも畳の上へ座って見物するようになっていた。だから、入場の際に木戸で下駄を預けることになる。引き替えに、木の板に番号を書いた下足札というのを受取って観客席へ入って行く。入場の時はよいが、帰りは一斉になるので、いっときでも早く外へ出ようとして、下足札を後から他人の肩越しに突き出したり、他人を押しのけて、我れ先にと押し合いへし合い、それはそれは大変な混雑ぶりだった。
その他、今では知らない人が多いと思うが、当時は芝居小屋、寄席、映画館には「お茶屋」と言う制度があった。「お茶子」と呼ばれる女中さんがいて、料金を払うと、火鉢と座ぶとんを席まで運んでくれた。20センチ角ぐらいの小さな木製の火鉢と薄っぺらな座ぶとんで、火鉢には小さい炭が1個入っていた。目的は手あぶりのためではなく、タバコの火をつけるためだ。当時は、ほとんどの人が刻みタバコを煙管(キセル)で吸っていたので、火をつけるにも、吸い殼を捨てるにも、火鉢が必要だったからだ。座ぶとんの上へあぐらをかき、前へ火鉢を置いて、煙管をくわえてゆうゆうと煙を吐きながら見物したのが当時の観劇風景だった。
映画はもちろん無声映画だ。数名の弁士がスクリーンの横へ並んで、台詞(せりふ)を言ったり、説明を加えたりしていた。妙なことに、当時の活弁(活動写真の弁士のこと)の人気たるや大したものだった。今のスター並で、演じている俳優よりも、弁士の人気の方がややもすれば上回るほどだった。
1巻終わるたびに休憩するので、5、6巻ものだと全部終わるのにかなりの時間がかかったものだ。休憩時間には売子さんが、「みかん、落花生、キャラメル、あんパン」と呼びながら客席をぐるぐる回って売り歩いた。落花生やあんパンを食べながら見物した。
すべてが、今とくらべると実にのんびりとしていた。
芝居と映画のチャンポン
今では聞きなれない言葉だが、私が子供の頃には「連鎖劇」という芝居と映画を組合せた劇があった。
芝居にとって変って映画ファンが次第に増えつつあったが、その反面、芝居の魅力が忘れられないという芝居好きの人々も大勢いた時代だ。その両方の客を引き寄せようという狙いがあったのかどうか知らないが、芝居と映画をチャンポンしたような連鎖劇というのが一時よくはやった。四日市の芝居小屋へも時々巡業にやって来た。私も姉につれられて見物に行ったことを覚えている。
なるほど、連鎖劇とはよく考えたものだと子供心に感心したものだ。たとえば、海辺とか、山の中とか、町の中とか、自然の風景が必要な場面には映画を用い、舞台装置で足りるシーンは舞台で芝居をするという、実に合理的な方法だった。お客さんは、芝居を見ているうちに映画に切り変わり、映画を見ているとやがて芝居に変わってしまうということになる。映画を見たり、芝居を見たりして楽しんだものだった。
一時は大変好評でファンも多かったが、いつの間にか陰をひそめ、今では全く消えてしまい、「連鎖劇」という言葉さえ忘れ去られてしまった。
大正時代に繁栄した夜市
思い出の一つに「夜市」というのがある。今は影も形も見られなくなってしまったが、私の少年時代には各所にあった。
夜市と言うのは、不用になった家財道具を市にかけて売る人、ほしい品を競り落として買う人、そして、売買が成立すると店側か何パーセントかの手数料を取る仕組みになっていた。
不用になった物だけでなく、必要品でも生活費の足しに換金の目的で売りに出す人もあった。
また、「夜逃げ」と言って、借金で首が回らなくなり、万策尽きて、近所に気付かれぬように夜中にソッと逃げだすのだが、子供の頃にはよく聞かされた話だ。その時、後に残された家財道具を債権者が夜市に出して換金するケースもかなりあった。
とにかく、今と違って物を大切にする時代だったし、また、新品を買うだけの余裕もなかったので、古い物を夜市で買って間に合わそうとする人が多かった。古びてかたくなったふとん、着古した着物から、戸棚、たんす、下駄箱、お膳の類はもとより、石うすから鍋、釜、漬物おけにいたるまで、生活用品のありとあらゆるものが競られた。
何が売りに出されるやら、それも一つの興味の種にもなっていた。でも、たまには、安い買物をしたと思って家へ帰ってよく見たら釜の底に穴があいていたとか、動いていたはずの柱時計が動かなかったり、笑いたくなるような、同情したくなるような悲喜劇も往々にあった。夜市で自分が値を付けて買ったのだから、苦情を言っても相手にされないばかりか、笑い者にされるのが落ちだった。
競り人が出てくる品物の説明をするのだが、冗談をまじえておもしろおかしく、うそかほんとか、わけのわからぬことをしゃべって、買い気を起こさせるのが見ていてとても愉快だった。
昔は質素な生活だったから、家財道具類にしても、修理に修理を重ね、もうどうにもならなくまで捨てなかった。現代の使い捨て時代に育った者には想像もできないだろう。我々老人が、若者の生活振りを眺めていると、もったいなくて見ていられない思いがする。
帽子の歴史
終戦後帽子をかぶる男性が次第に減少し、近年はたまに老人がかぶっているのを見かけるくらいだ。ほとんどかぶらなくなった。
私らの世代では、無帽で外出するようなことはなかった。必ず身分に合った帽子をかぶった。身分に合わせる以外に、季節によっても区別されていた。
学生は自分の学校の校章を付けた学生帽をかぶる規則になっていた。学校を卒業して社会へ踏み出した頃には鳥打帽子(ハンティング)をかぶるのが通常になっていた。
やがて徴兵検査を終えると、晴れて社会から一人前として認められ、中折帽子をかぶることになる。中折帽子をかぶれるようになった初めのうちは、一まわりも、二まわりも大きくなったように思えて、堂々と街を闊歩(かっぽ)したものだ。
だれが定めたというのではなく、社会的な習慣として、小学生の頃から一生を通じて帽子をかぶって生活をしてきたのだ。
だからヘヤースタイルには一向無頓着だった。帽子をかぶらない現代人がヘヤースタイルに気を使うのは当然だと思う。現代人がヘヤースタイルに気を使うのと同じで、当時は帽子のかぶり方に神経を使ったものだ。右か左にちょっと傾けてみたり、目深にかぶってみたり、前のひさしをちょっと下げてみたり、帽体の頂の折り方を色々と変えてみるとか、鏡を見て自分に似合うスタイルを色々と工夫を凝らしたりした。かぶり方によって楽天家に見えたり、インテリ風にもハイカラにも見えたりするから面白いものだ。
また、帽子にも春夏秋冬と季節があった。中折や鳥打は、春秋は薄色、冬は黒、濃いグレー、ブラウンという具合に季節感があった。
品質も色々あった。普通物はウール製だが、高級品になるとアンゴラの毛で作った軽くてソフトなものもあった。輸入品では、イタリヤ製のボルサリノが人気があった。
夏になると街からいっせいに中折帽子が消えて、パナマ帽子とカンカン帽子一色に変わってしまう。パナマ帽子と言うのは、南方地方の植物の繊維を中折帽子の形に作ったもので、やや茶褐色を帯びた軽い、見るからに涼しそうな帽子だ。
カンカン帽子というのは、名が現わすように、たたくとカンカンと音がする固い帽子だ。麦殼を編んだものに糊を塗ってプレスで固めたものだ。角張った感じがして、キリッと引き締まって見えた。だから別名一文字帽子とも呼んだ。糊で固めたものだから、雨に見舞われたらおしまいだ。だから外出の多い人は、夕立にあったり、日焼けしたりでひと夏に2つも3つも買わねばならなかった。雨や日焼けに弱いだけでなく、ブリキで作ったようで融通性がないので、かぶる人の頭が標準形ならよいのだが、前後に長いとか、横に開いた頭の持主の方には、どうも添いが悪くてうまくかぶれない。かぶれるサイズの大きさのものをかぶっても、前後に空間ができたり、左右にできたりして困った代物だった。
今はあまりかぶらなくなったが、中山帽子というのも必需品として、各家庭に用意してあった。英国の紳士は今でも好んでかぶっている鍋のような帽子だ。カンカン帽子のように、黒いウールで作ったものを糊で固めた融通性のない帽子だ。儀式にかぶる帽子だから、結婚式などには、花婿はもちろん、列席者も礼装用に欠かせないものだった。
戦時中にはこれらの帽子は姿を消して戦闘帽と国民帽になり、終戦を境にして帽子離れの時代が訪れた。今ではかぶっているのは作業帽か運動帽くらいになってしまった。帽子も時代の変遷と共に変化してゆくものだ。
当時はかぶっている帽子によってその人の身分を知ることができた。「柄は大きいがまだ学生の身だ」とか、「鳥打をかぶっているところを見ると、まだ未成年だな」とか、また、「彼は一人前になったのだ」とか判断ができた。
2分進んでいた「標準時計」
JOCK名古屋放送局がラジオの電波を流し始め、ラジオの受信機が一般家庭にもボツボツ普及し始めた頃のお話です。
近所に古い時計屋さんがあった。60才をとっくに過ぎたと思われる年配のおじいさんが経営していた。そのおじいさんは、まるで時計のなかから生まれたようなことを言って私らを煙にまいている頑固者だった。時計に関することなら、どんな難問を吹っかけても、絶対に知らないとは言わなかった。そして自店の商品が日本一優秀だと言わんばかりに自慢するので、私ら町内の若者が集まると、どうかしてじいさんをへこましてやりたいと常に話し合っていた。
ちょうどその頃ラジオが、「只今より×時をお知らせ致します。3秒前、2秒前、1秒前、カーン」といった具合にカネを打って時間を知らせていた。
おじいさんの店に、高さ1.5メートル、幅50センチもあろうかと思われる大時計が店の正面にデンとすわっていた。振子がゆっくり左右に動いている前面にガラスの扉があって、そのガラスに、「標準時間」と金文字で書いてあった。
ある日、若者の一人がおじいさんの店の標準時計がラジオの時報より2分ぐらい進んでいることを発見した。さっそく近所の若者に事の次第を連絡した。さあ大変、頑固じいさんをやっつける絶好のチャンス到来とばかりに、勢い込んで4、5名の若者が駆けつけた。皆が鬼の首でも取ったようなはしゃぎかただ。
やがてラジオの時報が放送される時間を見はからって、5人がおじいさんの店へ押しかけた。何だかだと雑談をしているとラジオの時報が聞えてきた。「2秒前、1秒前、カーン」同時に標準時計に眼をやった。たしかに2分進んでいる。やった! これでじいさんの自慢の鼻を折ることができたとばかりに勢い込んだ。
「おじいさん!標準時計が2分も進んでいるがね!」
「この時計は標準時計とは言われんなァ」
「おじいさん、標準という字を消さんとあかんなァ」
ここを先途(せんど)と口を揃えてまくしたてた。
とうとうじいさんも参ったろう、グウとも言えないだろうと思いきや、
「お前らは考えが足らんなァ。今の時報は名古屋で放送してるんやろ。なんぼ電波が速いと言うても、名古屋から四日市まで伝わって来るのや、2分はかかるやろ、だから2分進んでてちょうど標準時間や。お前らは、電波が伝わってくる時間を勘定に入れるのを忘れてるから、そんなことを言うのや、若い者は考えが足らんなァ」
おじいさんはほんとうに電波が名古屋から四日市まで届くのに2分かかると信じていたのか、それとも負け惜しみでへ理屈を言って切りかえしてきたのか、その辺はわからなかったが、何しろ半世紀以上も昔のことで、現在のように科学が一般に進歩していない時代だから、あるいは2分かかると思っていてもおかしくはなかったかも知れない。
火の見やぐら
農村へ行くと今でも火の見やぐらが建っているのを見かける。私もかつて消防士をつとめたことがあるので、火の見やぐらとは無関係ではない。頂上につられている半鐘を懐しく見上げて見る。
私が子供の頃には、部落に一つずつ高やぐらが建っていた。今は都市消防が専門化したので、都会では見られなくなった。農村に建っているものも今は鉄骨でできているが、昔は木製で、ちょうど木で作ったはしごの大きいような格好のもので、一番上段の横木が腕をのばしたように右へ出ていて、その横木の端に半鐘かぶら下っていた。
いざ火災が発生したという時には、最初に発見した者がやぐらへ登って半鐘を鳴らすことになっていた。鳴らし方によって火元の遠近を知らすように定められていた。たとえば、早鐘といって、ジャンジャンジャンと休まず連打するのは火元がごく近くだということを知らせている。二つばん、三つばんというように距離によって打ち方が違っていた。
現代は火災報知の方法も進歩し、常備の消防体制も整っているし、高い望楼から四六時中見張って火災の発見に備えているし、火災発生を知らすのに、半鐘に変ってサイレンという便利なものもあるから、都市では無用の長物になってしまった。
私は農村で火の見やぐらを見つけると、必ず八百屋お七が半鐘を打っている江戸絵を思い出す。先にも述べたような木のはしごの火の見やぐらにうら若い女が髪を振り乱し、赤い湯文字をあらわに反狂乱の形相で半鐘を乱打している。そしてやぐらの前面には紅蓮の炎がうず巻いて、お七を今にも炎が包んでしまいそうな悽惨(せいさん)な場面を描いた図柄だ。
子供の頃にどこかで見たこの絵が、幼かった私の脳裏によほど強烈に焼きついたのでしょうか。今でも目をつむって思い浮べると、その当時に見たその絵が、そのまま鮮明にまぶたに映し出される。
昔の履き物
私が子供の頃の履き物について紹介しよう。
今では全く見かけなくなってしまったが、足駄(あしだ)(高下駄)というのがあった。うすい2枚の板が台に差し込んであって、2枚の歯の上に乗っているような格好だった。それに、つま先がよごれないように先掛けというカバーが付いていた。雨降り用で、ぬかるみの道より一段高い所に足の位置があるのだからよく考えたものだ(?)。でも、道がデコボコだったから足場が悪く、転んだり、足をくじいたりで、足駄で歩くのはまるで軽業師のような危険があった。
また、仕事には麻裏、ちょっとぜいたく品では雪駄(せった)というのがあった。麻裏は文字通り、い草で編んだ畳のような台の裏に麻を平たく編んだものが付けてあった。軽くて歩きよいので、みんな好んで履いた。雪駄の方は、竹皮を編んだ裏に、牛皮が張り付けてあり、かがとに鉄板が打ってあった。歩くとチャラチャラと、かがとの鉄板が地面にすれて音がした。ちょっと気どった履き物だった。
そのほかに、安くて徳用なものとして、八つ割れ草履というのがあった。草履の裏に8枚の木片が打ち付けてあった。一枚板でなく、8つに小さく切ってあったので、足によく添うので歩きよかった。
農村へ行くと一年中わら草履を履いていた。私は町だったので、わら草履は履かなかったが、軽かったので遠道を歩く時には、八百屋さんで買って履いたことを覚えている。
その他の履き物と言えばわらじがあった。荷車をひく人、人力車夫、行商人のような人が履いていた。私も小学生の頃には遠足の時にはわらじ履きで行った。自分で履けないので母親に履かせてもらって出かけたものだった。
履き物だけをとりあげてみても移り変りの激しさは驚くばかりだ。
ハーゲンベック・サーカス団
昭和2、3年頃だったように記憶しているが、ドイツのハーゲンベックというサーカス団が名古屋で公演したことがあった。その時、ある親しい友人といっしょに見物に行った思い出は忘れられない記憶として今でも頭に残っている。本格的なサーカスを見たのはこれが初めてであった。そのすばらしい芸に圧倒された。人間だけでなく、猛獣の曲芸には目を見張った。
私らの子供の頃はサーカスとは言わなかった。軽業(かるわざ)と呼んでいた。ハーゲンベックとは比べものにならない小規模なもので、祭礼の時とか、人出の多い時に広い空き地ヘテント張りの小屋がけをして、5、6日か長くて10日間ぐらい興行していた。
入口の片側が一段高くなったところに木戸番が座っていて、大声を張り上げて客を呼び込んでいた。木戸の横手には、客寄せのため、芸をする犬や猿がつながれて愛きょうを振りまいていた。その後ろでは、楽隊がにぎやかに演奏していた。曲はどこの曲芸団でも「天然の美」と決まっていた。曲芸団のテーマ音楽になっていたようだ。「空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音」、この曲を聞くと曲芸団を思い浮べ、曲芸団のことを思い浮べると、この曲を自然に口ずさむようになる。その曲が風に乗って流れてくると胸の高なりを覚えたものだった。
中へ入ると、テントの屋根裏には万国旗が放射状に張られ、曲芸団の名入りのペナントがひらめいていた。いす席は皆無で全部立ち見だった。
最近に見るサーカスとは比較にならないが、それでも当時としては、空中ブランコや綱渡りには舌を巻いて見物した。
ハーゲンベックが来てから後に、一般に軽業、曲芸団と呼んでいたのが、サーカスと言うようになったように思われる。古賀政男のサーカスの歌もその後の産物だったように記憶している。
世間で、子供が親の言うことをきかないと「軽業へやってしまうぞ!」といっておどされた。軽業師の修業はつらいものと思われていたからでしょう。
明治の男は幸せだった
我々明治の世代に生まれた人間は、家庭の長として絶対的な権限を持ち、亭主関白で暮らせてこられたことは、男としてこの上ない幸せな時代に生まれたことと喜ばねばならない(?)。まさに、男性天国の世の中だったから、男に生まれただけで終生権力が付いていたようなものだからありがたかった。
女は結婚して嫁いでしまえば、いかなる事態に遭遇しようとも、いかなる理由があったにせよ、辛抱に辛抱を重ね、歯を食いしばって耐え抜くのが女の道とされていた。辛抱に耐えかねて出戻ってこようものなら、世間からは白い眼でみられ、この上ない女の恥とされていた。だから、「女は三界に家なし」と言って、いったん嫁いだうえは、嫁ぎ先のほかには帰ろうと思っても帰る家は無いのだぞ! と戒められて嫁いだものだった。
とにかく、いかなる場合でも夫唱婦随が家庭の掟(おきて)になっていたのだから、何事によらず夫に逆うことは許されず、ご無理ごもっともと従うように教育されていた。「男の話に女が口を出すな」「女が出る幕ではない、引っ込んでおれ」と言った調子で、意見を述べることさえ「女のくせに」の一言で頭を押えられていた。
そんな男尊女卑の風習が当然のこととして男女の関係を支配していた。利口振った女を見ると、男のアホと女の利口者とがちょうどつり合うと言って見下したりした。男の浮気は甲斐性者としてほめられるが、女が浮気をしようものならその土地にはおられなかったろう。また、男が女の仕事を助けるような行為があったり、女房をいたわる態度を示そうものなら、「男の沽券(こけん)にかかわる」として仲間から軽べつされたものだ。
男性天国だった世の中も、今は時代が変って男女平等が唱えられ、今までのような男の身勝手が許されなくなってしまい、男の権利が縮小されてしまった。でも、我々明治生れの人間は、長年培われてきた優越感、女性観は、手の平を返すように容易に改まるものではない。頭では理解しながらも切り替えができないのが現実だ。
私自身も、この年になって今さら妻に対する態度を改めよといっても照れ臭くてできない。またそれでよいと思っている。妻も同様明治生れで男尊女卑の思想が頭にこびり付いた女だから、服従することにさほど抵抗なくついてくるだろうから、もう後いくばくもない人生だから、このままで行くことにしよう。
私らの結婚
私らが結婚したのは、昭和9年10、私が27才で妻が24才だった。
正式の仲人さんは、以前働いていた野崎タクシーの主人野崎さんにお願いした。式は、町内の小さい小料理屋の座敷を借りて行なった。
清吉兄のところへ出入する小間物の卸業をしていた加藤さんという方が俗にいう下仲人をして下さって縁談をまとめて下さったのだった。加藤さんという方は世話好きな親切な方だったが、相手の話を聞くより自分の言いたいことを息もつかせずにまくしたてるようにペラペラしゃべるタイプの人だった。世話になった方にこんなことを言うのは失礼だが、仲人役は打ってつけの方だったようだ。
話が進み、先様も私の方もそれぞれ近所へ問い合せという調査も済み、両方共よかろうということになって縁談は本決りになった。
昔は、肝心の結婚の当事者の意向は二の次で、両方の親同志で取り決めるのが一般的だった。「親が選んだのだから間違いない」というのが常識だった。私の場合もそのとおりで、「こういう娘さんをもらってやることにしたから、どんな娘か見てこい」ということだった。
私は加藤さんに連れられて見に行った。その当時の習わしとして、男は相手に悟られないようにそっと見てくることになっていた。
加藤さんが前もって先方と打ち合せがしてあって、私らが先方の親戚の家で待機している、そこで親戚の者が用事をかこつけて当の娘を呼び出す、当の娘は何も知らずに呼ばれたままにやってくる。それをチラッと眺めるという戦法だ。そんなからくりを知らないのは娘さんだけだ。男の一方的な得手勝手だが、それが当り前として当時はまかり通っていた。
その時点では、もう話がまとまっているのだから、今さら見ても見なくてもどうすることもできないのだが、やがて妻になる娘の顔を知らないでは――という親心からかも知れない。
当時は、新婚旅行などはよほどの金持ちがすることで、一般庶民には及びもつかないことだった。でも私らは、結婚して半年ぐらい後に2人で大阪見物に出かけて、どこのホテルだったか思い出せないが、1泊して帰った。それが新婚旅行と言えば言える。
結婚前すでに「ホリキ洋品店」を開業していたので、のんびり新婚生活にひたっているわけにもゆかず、新婚早々から2人で一生懸命家業に励んだ。
お世話になった野崎さんも加藤さんも、すでに他界されてしまい、今日こうして幸せに過ごしていることを、あの世で見守っていて下さることと思う。お世話になりました。ありがとう。
なれそめ結婚・なじみ結婚
テレビで近頃聞きなれないおもしろい言葉を耳にした。
老夫婦に「あなた方は恋愛結婚ですか?」と質問したら、「いいえ、私らはなれそめ結婚です」と答えた。私は思わず微笑が出た。
現代語で表現すれば恋愛結婚と言うのだろうか。現代風の恋愛結婚とは、結婚まで交際を続けて、互いに知りたいこと、望みたいことを積極的に話し合い、相手のすべてを知ったうえで、両親の同意を得て結婚に踏み切る、というのが一般的だろう。「なれそめ結婚」は、恋愛結婚とは少しニュアンスが違うが、似ている。
「なじみ結婚」というのもあったが、これはやや内向的で、相手はどこのだれで、何となく好感がもてて、両方が出合えば目と目であいさつぐらいは交わす程度まで進展する。そこで両親に頼んで話を進行させるというつつましい運び方が常識的だ。
それから、結婚の心構えにしても現代とはかなりの違いがあったように思う。現代っ子は「結婚して幸福になりたい」と願うし、また相手も「きっと幸福にしてみせる」と言う。幸福になることを前提としている。それに対して古い時代は、「あなたと苦労がしてみたい」と言い、「2人で苦労しようじゃないか」と言う。
結婚してすぐ幸福を夢見る現代っ子に対して、古い時代っ子は、世帯を持てば苦労が付きまとうことを覚悟して、2人でそれを克服する決意で結婚する。どちらがどうと言うのではなく、時代は刻々に変化をつづけている。そうして、人間の観念まで徐々に変えてゆくことを感じた。
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