ご参考: ホームページ「アートスミス・鳥人の足跡」の中、「足跡(大正6年)」の5月19日(土)に四日市で開催した飛行大会の様子が出ています。 |
遠足
近頃は小学生の遠足にバスを利用しているようだ。遠足というのに、バスに乗って行くとは? 私らのような古い人間には何となく奇異に感じる。遠足とは歩く訓練が目的であるように理解している。学年に応じて精いっぱいの距離を歩いたものだ。私らの小学生の頃の遠足のようすを思い浮かべてみることにしよう。
遠足はやはり楽しかった。服装はと言えば、かすりの着物を着て、学生帽をかぶり、袴(はかま)をはいて、履物はわらじといういで立ちだった。当時の学生は必ず学生帽をかぶった。袴は、はくことになっていたが、小学生は祝日とか遠足とか、改まった時にだけはくのが普通になっていた。わらじは遠足の時だけで、通学はげた履きだった。
遠足の弁当は、日の丸弁当といって、おにぎりの中へ梅ぼしを入れたものを4個か5個竹皮に包んで、さらしもめんを筒状に縫った中へ入れ、肩からたすきにかけて持っていった。ちょうどおにぎりが背中の中心に斜めに背負った格好になる。
水筒を持って行くようになったのは、もっと後になってからで、のどがかわくと、通り道の百姓家の井戸を見つけて、つるべでくみ上げて、つるべへ口をつけて飲んだものだ。
帰り道は、ほこりで白くなった足を引きずりながら、それでも元気に歌を歌って帰った。翌日は、学校へ行くのに、足首やひざが痛かった。
この頃の小学生をながめると、服装はカラフルで、スマートだ。リュックサックにぜいたくな弁当や、おやつに上等のキャンデー等をたくさんつめ込んで行くらしい。
私らの時代とは、比べものにならない。何から何までぜいたくの一語につきる。まるで大名とこじきほどの違いに思える。
夏休み
小学校は今日から夏休みに入った。私らも小学生の頃には、この夏休みを指折り数えて、どんなに待ちわびたことか。今日から1か月間をどうして送ろうか、子供なりに色々とプランを立てて、胸をふくらませたものだった。そして、過ぎてみると、あれもこれもと立てた計画の半分も達成できずに終るのが毎年の例だった。
私は毎年の夏休みを母の在所である朝日村(現在の朝日町)縄生(なお)で送る習慣になっていた。
教科書やら宿題帳やら遊び道具などをカバンに詰め込んで肩にかけ、踊る胸を押えながら四日市駅へ向うのだった。その時の喜びは、足が地につかぬはずみようだった。
出札口で「富田(とみだ)小人1枚」と言って買った赤い切符を、しっかりと握りしめて列車を待つのだった。朝日村は富田駅と桑名駅との中間よりかなり桑名駅よりの位置だったから、桑名駅まで乗った方がはるかに楽なのだが、汽車賃が2倍になるので、富田から歩くことにしていた。桑名駅から縄生までが約3キロメートル、富田駅から縄生までが6キロメートルということだから、小学生でよく歩いたものだ。
叔父と叔母の家が4軒あった。その4軒をまわって遊んだ。
近くに天神山という小高い山があって、氏神様もその山にあった。従弟の衛一君とよく遊びに行った。騒々しく蝉(せみ)が泣いていた。炎天下の山を駆け回って、虫をとったり、木に登ったりした。みがき砂を採掘したかなり長い坑道があって、暑くてたまらなくなると、その坑道へ飛び込んでは、冷やかな空気で、吹き出した汗を押えて一服しては遊んだものだ。
村はずれには町屋川の清流が流れていた。唇が紫色になるまで水につかって夕方まで遊んだ。「もっと早く帰れ」と、よくしかられたものだった。
伯母の家は米のブローカーのような商売だった。米を桑名の米屋さんへ届けるのに、荷車の先引きを命じられた。ロープを肩へかけ、ぞうりをはいて一生懸命に車を引っぱって旧東海道を桑名へ行った。暑い仕事だったが、帰りは安永の氷屋でかき氷を食べさせてもらうのがうれしくてそれを楽しみにして行った。縁台へ腰かけて、スプンで氷をつきながら食べると、口の中がしびれるほど冷えてくる。暑さがいっぺんに消えてしまって、体中を冷風が駆け抜けてゆくような感じがした。
その時のかき氷の味が今だに忘れられない。その氷屋さんは今だに昔と同じ場所で氷屋さんをやっている。たまに通ることがあるが、懐しい思いでながめて通る。
長かった夏休みも終りに近づき、日のたつのが早いのを嘆きながら、縄生と別れて富田駅までテクテク歩く。全部すませて帰る予定の宿題が、まだ残っているのを気にしながら……。
修学旅行
人間の記憶というものは妙なもので、これだけは絶対に忘れてはならないと念じて頭へたたき込んだつもりが、いつの間にか抜けてしまっていたり、忘れても何の不便も感じない、ささいなことがいつまでも頭にこびりついているということがよくある。
私らが小学生の頃にも修学旅行はあった。5年生から高等小学校2年生まで、毎年秋に行なわれることになっていた。だから私も4回どこかへ行ったはずだ。ところが何年生の時にどこへ行って、どんなことがあったのか、まるで覚えていない。あんなに楽しかったことだったのに、なぜもっと正確に記憶していないのか不思議に思う。
名古屋見物、伊勢神宮参拝、奈良方面、京都方面へ行ったということは覚えがあるのだが、部分的なことが記憶にあるだけで、まとまったことは全く覚えていない。そのなかで、名古屋へ行ったことは比較的よく覚えているほうだ。その時の記憶をたどってみよう。
名古屋駅(現在の笹島)に到着して先ず驚いたことは、歩いている人が多いことだった。それから駅前に並んでいた旅館の1軒の屋根に金のシャチが乗っているのを見て、あれが名古屋城かと思ったこと。それと伊藤呉服店(現在の松阪屋)を見物に行って、3階建ての西洋館の大きかったことに目を丸くした。(当時は栄町交差点にあった。)そればかりか、店内へはいってエレベーターに乗ったことだ。(3階建てだったが、エレベーターの設備があった。)
生まれて初めて乗ったエレベーターのことは、昨日のことのように覚えている。エレベーターの中が薄暗かったこと、動く時と止まる時の軽いショック。エレベーター・ガールの容貌から服装まで、目を閉じれば当時のままではっきり瞼に映る。名古屋城、熱田神宮、鶴舞公園へも行ったに違いないが、エレベーター以外のことはいっさい覚えていない。
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